統一新羅時代

神文王5年(685年)、地方行政を改編しながら全国を9州5小京に編成したが、尚州は9州に属して州治所が設置された。
※ 当時の9州の現況
① 尚州(尚州) ② 良州(梁山) ③ 康州(晋州) ④ 熊州(公州) ⑤ 全州(全州) ⑥ 武州(光州広域市) ⑦ 韓州(京畿道広州) ⑧ 朔州(春川) ⑨ 溟州(江陵)
神文王7年(687年)に尚州城を築造した。城郭規模は王山を中心として積んだ石築で周囲1,549尺、高さ9尺であり、東門を控洛門、西門を相露門、南門を弘治旧樓、北門を玄武門と名づけ、城内には太平樓、司令庁、商山館など22の公共機関と21の井戸、2つの池などが所在したと各種資料に残されている。
景徳王16年(757年)に沙伐州を現在の尚州に改称し、恵恭王12年(776年)に1州10郡30懸を管轄した。尚州に属した郡懸は現在の洛東江上流地域である安東市臨河面一帯を境界とし、西は栄州市の一部、青松郡の一部、醴泉郡、聞慶市、義城郡、軍威郡、金泉市の一部、忠北の清原、報恩、沃川、永同、黄澗一帯が管轄に属した。
※ 州の長官の名称は従来の軍主から総管、都督などに改称されたが、それらは今日の道に該当し、郡には太守、懸には令を置いて中央管理配置がなされた。新羅の地方制度は行政的意義とともに軍事的な意義も非常に重要視された。
真聖女王6年(889年)の政治紊乱により各地方では豪族勢力と農民の一揆があったが、尚州では元宗と哀奴の暴動があった。これは新羅沒落をせき立てるきっかけとなったが、北原の梁吉と弓裔、甄萱等の後三国形態に発展した。
城は多くの種類の名称に区分することができる。まず地理的に区分すれば山城、平地城などに分けることができ、形態的に見れば満月城、半月城、長成などに分けられ、材料を中心に見れば土城、石城、木柵などに区分することができる。普通は丘陵地等を利用して積み上げた邑城を利用したが、戦闘時には主に山城を利用した。山城は一般的に都市中心地域付近の険しく高い山の上に防御壁を積み、兵器、軍糧、燃料などを保存したり、人の住居及び水を供給できる井戸などを確保しなければならなかった。甄萱山城は自然岩盤と谷を利用しながら山の頂上部分に4角形に積み上げたが、建物址と井戸の形態などが残っている。山城に登れば俗離山文蔵台及び観音峰一帯と青華山、道蔵山など四方を観望することができる。
孝恭王8年(904年)、後高句麗を建国した弓裔が尚州に侵入して30余りの城を奪い、景明王2年(918年)屏風山城に雄拠した甄萱の父であると同時に尚州の有力な豪族である阿慈蓋が高麗太祖王健に降伏したという記録がある。
甄萱の本姓は李氏であるが、後に甄氏とされた(三国史記)。
王健即位18年(935年)、甄萱は金山寺を脱出して王健に頼り、良州(梁山)を領地として受けた。